昭和49年05月14日 朝の御理解
御神訓 一、「不浄のある時は、先に断りおいて願いある事を頼めよ。」
自分の心に懸かる不浄、又は体の上に感ずる不浄。どちらに致しましても、そう云う時には、「先に断りおいて願いあることを頼め」と仰せられる。不浄と言うのは、不浄穢れと、こう申しますから、黒不浄とか、赤不浄とかと言う様な事を、一般では不浄と申します。神社仏閣などではそれを大変忌み嫌う訳です。いやそれでは神様にご無礼になるとして、いわゆる神様を敬遠いたします。
けれどもお道で言う、私は不浄と言った様なものは、そう云う事ではない。けれども心に懸かるならば、又は自分の体にそれを感ずるならば、やはり「今日は此の様に体が汚れております」と言うて、先に心に懸かるならばやはり、お詫びをしたり、または願ったりするべきだと思うですね、その事を。けれども私は、お道の信心はそんな、言わば小さい信心じゃないと思う。まあ汚れておるとか穢れておるとかと言うなら、人間のいうなら体ぐらい、汚れ・穢れしておるものはないだろうと思いますけれども。
そう云う事を一々とがめなさる神仏と言うのは、私はその神仏の心が解らない。金光大神が御取次下さる天地金乃神様と言われる方はそう云う神様ではない。けれども、心に懸かるならば、「先に断りおいて」とこうおっしゃるのである。四神様は、「お道で云う不浄とは成就せぬ事じゃ」と仰っておられますですね。願うても願うても一つの事が成就しない。不成に終わる。それが不成じゃと仰る。
氏子が願うても願うてもおかげにしてやれない。その事が神様としては残念でおありになり、又はそれをお嫌いなさると云うのなら判ります。不成とはいわゆる成就の成ですね。ですから、お道で言う府成とは、成就せぬ事じゃと。昨夜遅う、ある事を私、お願いさせてもらっておりましたら、『ミレーという人が画いた「晩鐘」と云う絵がありますね。ミレーの「晩鐘」。
夕焼けの空に教会の会堂が見えておる。言うならば夕のお勤めの鐘か何かの音を聞いて、そして野良仕事に出ておる若い夫婦が敬虔な祈りをこう捧げておると云う。あんな絵ね、皆さんご承知だろうと思う「晩鐘」と云う。その私ミレーの「晩鐘」を頂いたんですけれども。私が頂くその絵は、こうして敬虔な祈りを捧げておるかに見えるけれどもです。一つも有難なさそうな、言うなら形だけの祈りを』という感じで頂くんです。
『次には、やはりミレーの絵に「落穂拾い」かなんかの絵がありますね。農夫がこうやってかがんで落穂を拾っている絵があります。その絵も、絵そのものは素晴らしいんですけれども、私が頂くその「落穂拾い」はです。真っ直ぐこう拾うて行きよる』と云う感じなんです。まあそう言う様な私が頂いたお知らせを一つ頭に描いてね、聞いて頂きたいと思うです。
そして私が願うておる事はです。そう云う事では願いにならないぞと、おかげにならないぞと、と云う事はまだ私は、第一本当な言うならば、感謝の心と云う物が欠けておるんだと云う事です。ミレーの画いた「晩鐘」はそれこそ敬虔な祈りを捧げておるのですけれども、私が頂いたのは形はそうですけれども、なんとはなしに形だけの、まあ黙祷と云うか祈りをしておると言う様な感じです。
さあその事を頂いて思打て見ると、もう本当に私共が喜ばねばならない。感謝しなければならない。「有難う御座います」を、もう連発しておらなければならないような事柄を、一つも御礼を言うておらなければ、感謝の念もないのに改めて私驚きました。私も大抵感謝の生活をしておるごとあるけれども、「感謝が足りんぞ、喜びが足りんぞ」と実際そう言われて見ると。成程形の上においては敬虔な祈りを捧げておる様にはあるけれども、目の荒いこと目の荒いこと。
家内に感謝が足りない、子供に感謝が足りない。物にも事柄にも本当に感謝の念の薄いのに改めて驚くぐらい。御礼を申し上げる所へ御礼を申し上げずして、そして願いごとばかりを先に願ったって、そう云う願いは不成に終わるぞと云う事。不成は今日の御理解からいうと、成就しないぞということ。そういう成就しないそのことを神様がお嫌いになるんだと云う事。そこで私共の場合は目が荒いですから、本当に御礼を申し上げねばならないところに御礼を申し上げず。
感謝を捧げなければならないところに感謝も捧げずしておると云う事はです。だから先に断りおいて願いあることを頼まなきゃならんのです。私共の場合は、其処ん所を詫びて行くのです。御礼を申し上げても、御礼を申し上げても実を言うたら足りんのだ。それを又実際にこう言われて見るとです。もう本当に目が荒いです。そこでならそう云う不浄をです、私共の心に先ずは感じなければならない。
喜び不足御礼不足それをです。本当におかげを頂いてお願い、お願いばっかりさせてもらいよりますけれども。それでもお願いは止むに止まれない者ですから、そう云う不浄の心成就しない、言わば心を先ずは先に断りおいて、願いある事を頼むと云う事がです。私は金光教の信心で云う「不浄ある時は先に断りおいて願いあることを頼め」と言うのはそう云う事が本当だと、金光教の本質から行くとそうだと思うんです。改めてね、私その事に、自分の喜びの足りない事。感謝の念の足りない事。
だから大体その感謝が足りない。「本当に御礼の足りないお詫びばかりをしとる」とか、「もう御礼とお詫びばかりしとります」と言った様に簡単に申しますけれども。実を言うたら、そこの所を突き詰めて、そしてその事を詫びて行くと云う事でなからなければ、只、「御礼ばかりしております。お詫びばっかりしております」だけではいけない。そう云う心の状態で願うても不成に終わるぞと云う事を、昨夜私はお知らせを頂いたんだと思う。それからまあ願う事をおいて、改めてです。
その感謝の足りない事をもうあれも是もと、改めて一日中の事をあれこれ思うて見て、御礼を申し上げるともうある事ある事驚くばかり。次にその「落穂拾い」ですそれがとこう片詰めて拾うて行くのではなくてから、あそこここを拾うて行きよると云う感じなんです。私共がね是によって力を受けて行けよと、是を頂いて是を受け物にして行けよと言う様な、例えば日々の中にも沢山あろうと私思うです。
私は何時でしたか、もう椛目の時代でした。お知らせを頂いた。『それが私が道を歩いておるとですね。手に持つ懐中電灯と云うのがありましょう。あれを全部、電池は電池、レンズはレンズ、持つ所は持つ所、と云う風にバラバラになっとる。なんか落ちとるからと思ったらその懐中電気が、握る所だけ落ちとる。あらと思うて拾うたら中は空じゃった。ま少し歩いて行きよったら、今度は電池が落ちとる。ま少し行きよったら小さい玉が落ちとる。ま少し行きよったらレンズが落ちとる。
それをみんな拾い集めるところが、言わば道を明るくする、懐中電灯になった』というお知らせでした。もうこれは椛目の時代でした。一つのことが成就する。一つのことがおかげになる。それが心の光にも灯にもなると言った様な、おかげにはそう云う、言わば目の詰まった、どの一つを欠いてもです。光にならないのです。是を拾うて行きゃ力になる。是を頂いて行けば血に肉になると言う様な者をです。
ところどころ拾って、まあ良かとばっかり拾うて行きよると云う感じではです。日々の中にでもどの位に、お粗末御無礼になって行きよる事があるやら分からん。そう云う事では成就しないぞと云う事です。ですからその成就しないぞと云う事その事が不成なのだ。だから私共の場合はです。もう拾い損うておったり又は横着にそこを股ぐる様にして、拾わなければならないものを拾わずして、向こうとのを拾いよると言った様な事も、沢山あろうかと思うけれども、そう云う事を振り返って見反省して見る時です。
そう云う事ではおかげにならんと気付いた時です。そう云う事を先ずは先に断りおいて、願いある事を頼んで行くと云う事。勿論それを目細うて行ってです。それこそ一穂でも拾い落とす様な事があっちゃならんと言う様にです。拾うて行きゃ是が一番素晴らしい事です。私共の様に祈りに明け暮れておる様なです。おかげを頂いておっても実際神様からそう指摘されて見ると喜びの足りない事。感謝の足りない事または折角おかげの頂けれる、言うなら元にもなる様な物をです。疎かにして拾うても行っていない。
頂いても行っていない事の多い事に改めて気が付く。所がけれどもです。おかげを受けなければならない私共は。そこでですそう云う不成を、成就しないと云う元をです。突き詰め突き止めてです。お詫びをする心を以て、「先に断りおいて願いある事を頼めよ」とこう頂く時、始めて金光教的不成と云う意味も判れば、願いと云う事も判れば。願いが成就すると云う事は、そう言う様な内容があって、成就して行くのでなからなければ、本当の事ではないと云う事が判るのです。
「有難う御座います」とこう言うておるが、本当にその「有難う御座います」が、もうそれこそ敬虔なものであるかどうか。その「有難う御座います」と言うておる、その内容を確かめながら、私共がおかげを頂いて行くと云う所に、それが血に肉になると意うか、身に付いて来る所の感謝の心と云うか、天に御礼を申し上げ、地に御礼を申し上げる。自分の周辺のあれこれに、関係のある全ての事柄とか物とか人とかにです。
感謝を持つ、感謝を内容としてのおかげを頂いて行くと云う、目の詰まった目細まい言うならば、水も漏らさんと云う事を申しますが、水も漏らさん様な信心をお互い目指さして頂くと言う事。本当に私どものように今も申しますように、もう私共の様にこんなしておりますから、掛かっておって御礼を申し上げて良い訳なんだけれど、実際は締め括って見ると、目の荒いのには驚きます。そこのところを「断りおいて」と云う事になるのではないのでしょうか。
「不浄のある時は先に断りおいて願いある事を頼めよ」と、私共の身に感ずる事。心に感ずる事。感ずるならばやはりそれは不浄です。自分が汚い事をして来た。それがどうも心に引っ掛かってたまらん。ならばです矢張りそれは不浄ですから、矢張り先に断って例えばここへお参りをして来る時に、先ずお手洗いで手を洗うでしょ。そう云う時に、私手を洗いながら、それを自分の心も一緒に清める、そう云う働きをするのが私は手洗いだとこう思うんです。
けれども本当言うたらです。そう言う様な事をこの神様は、ごちゃごちゃ仰る神様では実はないのだ。只汚れて居る位の事は、そんな事顔道では不浄では無いのだ。けれども汚れておる事、その事が自分の心にかかるなら、やはりもうそこにおかげが引っ掛かる。ですからやはり断りおいてと云う事にもなりましょうけれども。言わば金光教の本質から行く所の不浄と云う意味の事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。